++67.決別++





 朝起きて顔を洗って、服を着替えて早朝ランニングに出かける。
 町では既に市場が開かれており、ズラリと並んだ店棚の上には今朝捕れたばかりの新鮮な魚が景気良く飛び跳ねている。
 あちこちからかけられる声に元気良く答えながら、人の波間をすり抜けて道をどんどんどんどん下っていく。
 浜辺に出た。
 海の水に反射する陽光が眩しくて、少し目を細める。
 サラサラとした砂の感触に足を捕られる。
 一定の間隔で訪れる涼やかな波の音。
 いつもより少し早い自らの鼓動を乱すことはなく、自然と心に染み渡り心地が良い。
 足を止めて、澄んだ空気を力一杯吸う。
 青い空。
 ああ、今日も良い天気だ。



 いつも通りの朝。
 このとき僕はまだ、いつも通りの一日が始まると思っていた。



 今日は何しよう?
 意気揚々と王宮へ帰り、取り敢えずトロイを起こすべく部屋を突撃した。
 けれどその日のトロイはもう身なりを完璧に整えていた。
 弾丸のように飛び込んできた僕の方を彼が振り向く。
「ナギ、今日ここを発つ。すぐに荷をまとめろ」



 そう告げられるまでは。


********


 出港のときが来た。
 桟橋には多くのクールーク兵が立ち並び、島民は立ち入りが制限された。
 せっかく仲良くなった島の人々にきちんと別れの挨拶ができないことを、僕は非常に残念に思っていた。
 しかしただ一人、オベルの人間でありながら例外的にこの場に立つことを許された人物がいた。
「あら、荷物はそれだけ?」
 フレア王女。
 突然の帰国宣言に、僕と同様に寝耳に水であった彼女は当然驚いたようだった。
 そして次に見送りに参加できないことを告げると珍しく激怒された。
 僕に怒られても困るんだけど、と言うとフレアはすぐにトロイの元へ許可を取り付けに駆けて行った。
 曰く「今この地の全権を握る人物の船出の際に、ここの王女は見送りの挨拶さえしない礼儀知らず。貴方は私にそんな汚名を着せたいのですか」と詰め寄ったらしい。
 しかしその割には、自分にばかり話しかけて、トロイの見送りなど全くする気配もない。
 口実ということを隠す気もないようだ。
 彼女のいっそ潔いトロイへの無視っぷりに内心苦笑をもらしながらも、最後に彼女と話せる機会が設けられたことは素直に嬉しかった。
「うん。着替えとか必要最低限なものしか入れてないから」
 急なことで慌てたとは言っても元々が仮の住まい。
 拾われた僕にはまとめると言うほどの荷は存在しないのだ。
 と言うとフレアには少し意外そうな顔をされた。
 僕は交友関係が広いこともあってか色んな人からよく物を渡されたので。
 けど基本的に消耗品以外は受け取らないようにしていたし、それ以外で断れなかったものは、大抵その都度くれた本人の許可を貰ってからそれが必要な人に横流ししていたので、ほとんど手元には残っていなかった。
 身につける物以外、市場で買った奇妙な置物なども全て人にあげたり、質屋で処分したりした。
 あの斬新なデザインの置物は、非常に惜しかったが。
 大きすぎた為泣く泣く諦め、それ以外は梃子摺ることなく結局準備は小一時間ほどで簡単に終了した。
「ナギ」
 そんなことを一々説明して中々船に乗り込まない僕に、甲板上のトロイが手の中の懐中時計をちらつかせた。
「すぐ行くよ」
 手で軽く了承を示し、再びフレアに向き直った。
「それじゃあ、名残惜しいけど」
「本当に行ってしまうのね……」
「え?」
「あなたといるとすごく楽しかった。だから、ずっとここにいればいいのにって同情じゃなく思ってたわ」
「フレア王女」
「ごめんなさいね。本当はわかってるのよ」
 寂しそうに笑うフレアは、とても疲れて見えた。
 実際そうだったのだろう。
 孤立奮闘。
 味方はいても、その事実を表立って出させるわけにはいかない。
 まだ若い彼女が矢面に立つのは、荷の重いことだ。
 本来ならそこで労いの言葉の一つでもかけるべきだったのかもしれない。
 それでも僕は、彼女に肩の荷を下ろして楽になれとは言いたくなかった。
 彼女の望みを知っているから。
「諦めないで下さい。離れていても海のご加護がありますよう」
 『貴方に』という決まり文句を言わなかったのは態とだ。
 もちろん彼女に対しての言葉であることは言うまでもない。
 でもそれだけじゃない。
 彼女と共に、その愛する国の行く末をも僕は想っていた。
 どこの誰ともわからない人間を優しく受け入れてくれた。
 トロイの国とここの国の関係を知らないわけじゃないけれど。
 それでも、彼女と、彼女の国に祝福を。
 祈ることくらいはきっと許されるよね?
「ありがとう、ナギ。貴方にも」
 良き恵みがもたらされますように。
 僕の真意は伝わっただろうか。
 わからないけど、彼女の微笑みは今まで見せたどんな表情よりも力強く、眩しく見えた。



 彼女にとって僕はいずれ去って行く者だった。
 だからこそ僕にとっての彼女もただの友人でしかなかった。
 僕の前では多くの島民達の命を背負う義務も、国の誇りのために戦う責務もない。
 そのままでいられたなら、それはとても楽なことなのだ。
 けれど彼女はそれを選ばなかった。
 やっぱり彼女は王女だ。
 わかっていたけど、わかっていなかったこと。
 フレアはきっと良き王になる。
 不思議なことに僕はこのとき、知るはずのない未来をはっきりと知った気がした。


********


 船が出港し、フレアの姿が見えなくなるギリギリまで手を振って満足した僕はやっと柵から離れ、トロイの横へと並んだ。


 そして僕はまた一つ、重大な事実に気付く。


 一人足りない。
 いるべき人が、いないことに。
 いつもトロイの隣にいるはずの、当然の存在が見当たらない。
 既に下に降りたのか?
 しかし省みて船着場でも一度も姿を見かけていないことに気付いて愕然とした。
 きょろきょろしているかと思えば、突然動きを止めて固まった僕にトロイが怪訝な表情で問いかけた。
「どうした。何を探している」
 だけど聞きたいのはこっちの方だ。
「コルトン様は?どこに」
「この船には乗っていない」
「別の船に?」
「いや。彼はオベルに残る」
 お前のところにも挨拶に行くと言っていたが?
 言われて荷をまとめているときのことを思い出した。



「ナギ」
「あれ、コルトン様?どうしたんです?出港前で忙しいんじゃ」
「ふむ。少しお前と話しておきたいことがあったのでな」
「珍しいですね。で、何の用なんですか?」
「お前は、ここに残らなくても良いのか?」
「は?」
「随分気に入っていたように見えたのでな」
「…そうですね、でも。今僕がいるべき場所はトロイの傍ですから」
「本当にそう思うか?」
「はい。誰が何と言おうと、僕は彼を信じようと思います」
「そうか…………今の言葉、違えることなきようしっかり心がけよ」
「? はい」
「邪魔をしたな。準備を続けなさい。忘れ物だけはないように」



 もしかしてあれがコルトンなりの餞別の挨拶だったのだろうか?
 どういう意図で言われたのかはよくわからなかったが。
 しかし腑に落ちない。
「コルトン様はトロイの副官なのに、離れても大丈夫なもんなの?」
 いつだったかコルトンがオベル周辺諸島へ出かけたことはあったが、今回は本国へ戻るわけだから短期の視察とはわけが違う。
 だから当然コルトンも共に戻るものと思っていたのだが。
 難しい顔をして考え込んだ僕をトロイはしばらくの間じっと見つめていた。
「トロイ?」
 トロイが突然言葉に詰まるのなんていつものことなのに。
 そのときの表情がすごく優しいものだったから、僕もそれ以上先を紡ぐことができなかった。
 けれどその緊張は長くは続かなくて、トロイがふっと笑みをもらしたことによって一瞬で霧散した。
「お前は何も心配しなくてもいい」
「別にしてないけどね」
 トロイの決めたことなら、大丈夫。
 本国へ行って、新しい家に預けられることになっても、きっと。
 そう思っていたのに。

 どこで間違えたのだろう。

 誰が間違えたのだろう。

 どこで、誰が、何が、

 最初から、全てが間違っていたのかもしれない。



 航海は順調なものだった。
 時化に逢うこともなく、その進行を妨げるものは何もなかった。
 ただ風の吹きはあまりよくなくて、その歩みは通常より少し緩やかだったかもしれない。
 それでも、一歩一歩着実に近づいていた。
 僕達の、いや。ただ一人の、目的に向かって。



 ある日、日が沈んだ頃に、国籍不明の中型船が一隻接近してきた。
 即座に警戒態勢が敷かれたが、トロイの指示によりそれはすぐさま撤回された。
 どうやらトロイが個人的に呼んだ密偵船らしく、その船に関しては一切をトロイ一人が仕切っていた。
 部下の念のためという忠告も受け入れる様子はなく、誰一人船に近付けさせることさえない。
 その徹底振りに僕も少しおかしいなとは思ったけれど、その時点ではさほど気にはしていなかった。
 それが自身に大きく関係するものだと知らされたのは、それから間もなくのことだった。




「お前にはここで降りてもらう」

 目の前に座る男の言葉が、理解ができなかった。
「行き先は本国じゃなかったの?」
 嫌な予感がする。
 声が、掠れた。
「この船の行き先はな。だがお前には今日接舷した船に乗ってもらう」
「どういうこと?」
 かつてないほど、自分の表情が険しいものになっているのがわかる。
「覚えているか?遺跡に行った日のことを」
「覚えてるけど」
 予想もしないところへ飛んだある日の他愛もない出来事。
 話の繋がりが見えない。
「お前は覚えていないかもしれないが、俺はあのとき刺客に襲われた」
「嘘だ…だって」
 トロイはそんなこと何も言っていなかった。
 刺客のことなど一言も聞いたことがない。
 僕が貧血を起こして倒れたのですぐ引き返したのだと。
 傷は遺跡のモンスターにやられたものだと。
 そう言われて今まで何の疑いも抱いていなかったのに。
 何より、何故嘘をついたのか。
 その先を聞きたくない、と初めて思った。
「どうして」
 なのに口は勝手に先を促している。
「お前の反応を見るためだ」
 ああ。
「あの日俺をあそこに連れて行ったのはお前だった」
 聞きたくなんてないのに。
「……僕を疑ってるの?」
 無言。
「僕は、スパイなんかじゃない」
 ずっと懼れていた。
 彼に、疑われることを。
「証拠でもあるの?」
「お前がスパイでないという証拠もない。それに本当に断言できるのか?記憶のないお前に」
 !
 常に自分でも抱いていた不安。
 自分はトロイを裏切っていない。
 今は、はっきりと断言できる。
 けれどこの先は?記憶が戻っても、僕はトロイを裏切らずにはいられるだろうか。
 確約できない未来の自分に、僕は言葉を失くした。
 黙りこんだ僕の姿にトロイは更に続ける。
「状況的にお前を疑わしいと思うのは当然のことじゃないのか?そしてそれはコルトンにしても同じと言える」
 コルトン?
 思いもかけない人物の名に、硬直が解ける。
「事は彼が俺の目の届く範囲から消えて二日後に起こった」
 何を言っているのだ、この男は。
「前もって仲間を周辺諸島へ呼び寄せておき、直接連絡を取り島内に手引きをしたと考えるのは不自然か?」
 己の憶測を辿るようにトロイは机を指先でトントンと叩いた。
「疑わしきは罰せよ、だ。これ以上危険なものを傍に置くわけにはいかん」
 不意にその音が止まった。
「残念ながら俺の周りには信頼に足るものはいなかったということらしい」
 胸がムカムカする。
「それ、本気で言ってるの?」
 気持ちが悪い。
「これも返しておこう」
 カツン。
 机の上に置かれたのは深い海色の袋。
「俺には、もう必要のないものだからな」
 ナギの中で何かが切れる音がした。
「明日までには準備を整えておく。今日はこのまま休め」
 肩が、震える。
 トロイが静かに椅子から立ち上がり、ナギの横をすり抜けていく。
 考えるより先に手が動いた。
 素早く机の上のモノを奪うように握りこんだ。
 勢いのままにトロイに向かって力一杯投げつける。
「っ馬鹿にするな!捨てたきゃ自分で捨てろ!!」
 キッと顔を上げたナギの目は、その名に相応しくなく漣だっていた。
「そうか」
 トロイの答えはそれだけだった。
 足元に転がったソレを拾い上げ、一度もこちらを振り返ることなく扉の外へと消えていった。
 無言で拳を握り締める。
 悲しいわけじゃない。これは、怒りだ。彼に対しての。
 ナギの頬に涙はない。
 ただ唇を噛み締めていた。



 星空の下、僕は今、何をするでもなくじっと水面を見詰めていた。
 何をするでもなく。
 追っていって「信じろ」と言うこともできたはずなのに、思わぬトロイの拒絶に足が竦んだ。
 けれど部屋でじっとしてもいられなくて、甲板に散歩に出た。
 通りがかったトロイの部屋。
 いつもなら遅くまで明かりが消えることはないのに、今日は光が漏れている様子がなくて、嫌でも主人が不在にしていることがわかった。
 いたとしても話をする気分ではとてもなかったけれど。
 結局僕は一晩中、甲板に立ち尽くしていた。
 寒いとか、眠いとか、当たり前の感覚さえ抱くことなく。
 夜が明け始めた。
 別れの朝が、やって来る。


********


 いつの間に帰っていたのか。
 まだ靄のかかる早朝に、トロイは甲板へと姿を現した。
 迎えに来たトロイとは一言も口を聞かず、黙って自らの部屋に戻り、荷を抱え部屋を出る。
 トロイの導きに従い、黙々と階段を降りる。
 そこには昨日まであった柔らかな空気は一切無い。
 辿り着いた、四層にある釣り場には小船が用意されていた。
 前もって人払いがなされていたのか、いつもなら娯楽代わりに賑わうそこには一切の人影はなかった。
 ただ一人。小船の上にローブで姿を隠した青年が一人ポツリと佇んでいた。
 訝しげに見つめる僕の視線に気付いたのか、彼は紹介のために一瞬だけフードを取り、一言ヘルムートと名乗った。
「ナギ。挨拶をしなさい。これからのお前の面倒は彼が見てくれる」
「わかりました。よろしくお願いします。ヘルムート様」
「ではヘルムート。彼の監視はお前に任せる。本国のためだ、大丈夫だな」
 トロイはただ淡々と、初めの頃のように事務的な会話だけを口にする。
「……はい、了解しました」
 表面的には僕も落ち着いていたので、結果ヘルムートだけが居心地が悪そうに身じろぎしていた。
 実直な青年なのだろう。
 彼は躊躇ったすえに、僕の顔を心配げに覗き込むんだ。
「ナギ殿、トロイ司令官にお別れをしなくてよろしいのですか」
「ヘルムート、いい」
 何が「いい」だ。
 ちっとも良くなんてない。
 澄ました表情がとてつもなく癇に障った。
 挨拶さえも許さない気か。
 納得がいかなさそうに食い下がろうとするヘルムートの導きに従い、一歩前へと踏み出す。
「今まで大変お世話になりました、身元もわからぬ私を保護…してくださったこと、心よりの感謝を捧げます。トロイ司令官」
 自分にもこんな声が出せたのだな。
 感情の色が一切窺えない、自身でさえもわからない、ただただ平坦な声だった。
「当然のことをしただけだ。感謝されるほどのことではない」
 それでもトロイは顔色一つ変えなかった。
 未練を断ち切るように僕はさっと小船へと飛び降りた。
 「出します」という合図と同時にヘルムートがオールを動かし始める。
 いよいよ最後というときになって、一度だけトロイは僕の方に目をやった。
 礼儀的な態度を貫かず半端に振り返られたことがまた無性に悔しくて、僕は最後の最後の瞬間まで素っ気ない態度を崩さなかった。
「バイバイ」
「ああ」
 愛想もクソもない別れ。
 それ以降僕は一度もトロイを振り返ることなく、先の見えない靄の向こうをじっと睨みつけていた。
 小船は緩やかに船を離れ、船の姿はゆっくりゆっくり靄の向こうへと消えて行く。






ヘルムート、彼を頼む






トロイは去った





僕も彼の言葉に従い、彼の傍を離れた








 十年ほど後になって、僕はとても後悔する。




 以降僕が彼と会うことは、二度と、なかった。






to be continue…




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